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2009年9月16日水曜日
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2009年7月21日火曜日
学者はいかに病と向き合うか
2009年7月19日日曜日
大学院の1/4が終わりました
先週いっぱいで、今期の大学院の授業が終わりました。今期から論文を書き始めるつもりでいたんですが、結局は問題意識を固めて、リサーチデザインを整えるだけで7月が来てしまいました・・・。不覚です(苦笑)。
でも、時間をかけてリサーチデザインを突き詰めることによって、いままで意識下にあって言語化することができなかった、自分の問題意識のコアの部分がわかるようになりました。
僕は学部時代、政治学を勉強の中心に据えていました。しかし、大学院では、政治学だけではなく、政治・行政・経営に関する組織の意思決定について研究を進めていきたいと思っています。その理由は、自分自身の興味が、ディシプリンとしての政治学の「深み」にはまることではなく、政治学で得たフレームワークを使って、現実社会に関わる政策課題を分析したり、制度設計を提言したりすることにあったからです。
いま振り返ると、僕が学部時代に政治学に興味を持った最大の理由は、政治学が政治というブラックボックスのなかに、合意形成と意思決定のメカニズムを見出そうとしていることにあったのだと思います。一つの政策を決めるにも、さまざまなアクターがそれぞれの思惑を持って、政策過程にコミットします。多くの場合、政策決定の主導権をめぐる争いがありますが、その争いもさまざまな調整と妥協が行われるなかで、最終的には一つの政策案に収束します。
合意形成と意思決定をめぐる「調整と妥協」といっても、その背景には、政策決定に参加するアクターの個性、アクター間の関係、アクターが所属する組織、そしてアクターの活動を拘束する制度といったさまざまな変数があります。すべての政策は、これらの変数が複雑に関係し合うなかで生まれます。そして裏を返せば、アクター・組織・制度の三者の関係をうまくデザインできれば、合意形成と意思決定のプロセスを変えることもできるということです。
合意形成と意思決定のデザインは、政治だけではなく、二人以上のアクターが関係するすべての組織・集団に関わる最も重要な課題です。僕は、この課題を、政治という領域を越えて、「組織の普遍的問題」として考えていきたいと思いました。そして、行政と民間のさまざまな組織の意思決定を分析することを通じて、最終的にどのような制度設計をすれば、より合理的な合意形成と意思決定に近づくことができるかを提言していきたいと思います。
もちろん、組織の形態やケースに応じて異なる合意形成・意思決定を一般化して論じることは難しいと思います。しかし、組織・ケースをパターン分けして、それぞれにとって最も適切な設計といったものを提言することはできるでしょう。とりあえず、僕の大学院の研究テーマはこんなものになりそうです。
2009年6月15日月曜日
政策評価から政策公開へ
最近、授業で政策評価が何回かとりあげられ、個人的にも政策評価制度の可能性と限界について考えてみた。
個人的な結論としては、政策評価が導入された意義は、①政策過程に行政以外のアクターを関与させるようになったこと、②それにともなって行政の領域の自明性や行政の無謬性が問い直されるようになったこと、の二つにある。
より過激に言い換えてしまえば、政策評価の目的は評価そのものにあるというよりも、評価制度を通じて、「公共性の聖域」となっていた行政を、改革の遡上にあげることだったのではないか、ということである。
いま政策評価をめぐる議論で問題となっているのは、どうやって行政を客観的に評価するか、ということである。だが、そもそも評価というものは、完璧な客観性・中立性を担保することは不可能だ。
たとえば、評価に必要となる資料はすべて行政が持っているので、都合の悪い資料が出されない可能性がある。さらに行政の仕事の領域は、非常に広範に渡るし、専門的であるため、評価機関・評価者には大きなマンパワーと高度な専門知識が要求される。それゆえ、質の高い評価を行うためには、専門知識を持つエキスパートを大量に確保する必要があり莫大なコストがかかる。
また、行政の仕事を定量的に評価するということにも限界がある。たとえば、外務省が「首相が中国に訪問した効果として、中国首脳との関係が改善された」ということを定量的に示すことは不可能だろう。行政にはこういった類の仕事がたくさんある。このような情報(資料)の非対称性とマンパワーの限界、定量化の限界などにより、「評価の不可能性」が明らかになる。
もちろん、コスト分析ができるような領域においては、評価はより容易にできる。たとえば、公共交通機関や公共施設の経営などがそうだ。だが、わかりやすい評価基準があるような行政の事業は非常に少ない。そもそも、そういった事業は民間にもできるようなものが多いから(民間のバス会社や美術館もたくさんある)、それらは民営化すればよいだろう。言い換えれば、行政のコアの仕事はほとんどが評価しにくいものなのである。
そこで浮上しているのが、「行政に評価はそぐわない」という議論である。最もよくあるのは、行政の仕事は「効率性」や「経済性」という枠では扱えない課題に対応するものであり、「業績評価」のようなものとは相容れないという批判である。
もっともな批判である。そして、評価の客観性や厳密性を追求する政策評価の研究者はこのような批判に十分に答えられていない。
だが、先述したように政策評価の意義は、「評価」そのものにあるのではないと考えたらどうだろうか。評価によって、行政の情報公開が進んだり、政策過程に民間人が関与するようになる。これらを通じて行政の無謬性が否定されて行政文化が変わること、そして政治・行政・民間のあらゆる人々が行政の領域を再考する機会を持つこと、ここに政策評価の意義があると考えるべきではないか。
私は、政策評価が「評価の不可能性」から脱するためには、政策評価を「目的」ではなく、「手段」として再定位されるべき思う。そうすれば、評価の客観性や厳密性が不十分であるとか、行政は評価にそぐわないといった政策評価批判に反論することもできるだろう。
そのような意味で、「政策評価」という言葉も時代遅れになったといえる。情報公開や政策過程のオープン化などにフォーカスすれば、「政策公開」という方が適切だろう。政策評価法制定から7年がたった。いまこそ政策評価から政策公開へとシフトすべきときなのではないか。
